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リアルな津波が想像できなかった私だからこそ語れる震災のこと。-元生徒-

あの日、あの瞬間に起こった事実は確かなこと。

 

でも私たちには、あの一瞬だけではなく、その前に確かにあった「日常」の記憶があります。津波の爪痕が残った校舎からは、日常の中で起きた災害ということが分かります。

 

しかし、わたしにとっての 請戸小学校は悲しみの場所ではなく、懐かしい思い出が溢れる母校 なんです。地域に愛された学び舎であり、いつまでも変わらない心の拠り所です。

 

地震で揺れが大きくなる中、パニックにならないように深呼吸していました。周囲からは、今までに聞いたことのない「ガシャンガシャン!」という音が聞こえて。教室から校庭に避難している際、校舎内の棚が倒れているのを見て驚きました。

 

校庭から避難場所に指定されている大平山へ移動した記憶は…実はほとんどありません。

 

ただ唯一覚えている場面は、おびえて震えている下級生の子に「寒くて、怖くて震えているんじゃなくて、余震で揺れているだけだと思おう」と謎の励ましをしていたことです。実際、田んぼの水が揺れているのを見て、自分の震えが寒さと恐怖のせいか、それとも余震のせいなのかわからなくなっていました。

 

震災後、当時の先生から聞いた話があります。大平山への避難中、私たち上級生は先生に何か言われるでもなく、  自発的に下級生の手を引いて励ましてあげていた そうなのです。

 

しかし、わたしは特に意識をして下級生の子に声をかけたという訳ではありませんでした。下級生の子を励ましてあげよう!と強く意識して起きたのではなく、自然と励ましたり、手を握っていた気がします。

 

そして、 「また帰れる」と信じていて 、リアルな津波など想像できず、アニメのように考えていましたー。

避難場所の大平山に登っていた時、津波のことは全く気づきませんでした。
私の耳に残っているのは、ザァアアという風に吹かれて木々が擦れる音だけ。「阪神淡路大震災は、これよりもっと大きかったんだろうね」なんてのんきな発言をしていました。(自分が大災害に遭遇しているーーそんなことは全く考えていませんでした。)

 

小学生でも、津波は大きな波が押し寄せるということも、津波から逃げていることも分かっていていました。 ただ、 リアルな津波は実際にどんなものなのか、想像ができなくて。 

 

『崖の上のポニョ』の水没シーンみたいなものだと考えていました。まちに水が流れて、そのままスーッと引いていくイメージです。家や車が流されることは想像できず、水が引いて戻れると思っていました。

 

そして長い間戻れないと知った時、とにかく早く請戸に帰りたい!と思いました。2011年6月の一時帰宅では、15歳未満の子どもは認められず、親だけが自宅に戻っていましたから。

 

当時、まだ浪江町に立入規制がかかる前、まちに入って現地の様子をYoutubeにアップしていた人の動画をよく見ていました。それぐらい、戻りたいという気持ちが強かったです。

 

請戸小が壊されたら、故郷から全てが無くなってしまうー。

震災後、請戸に何度か訪れる中、その度に景色が変わっていました。

 

建物が解体されていくこと。それは復興が進んでいる証拠とも言えますが、 一度津波で壊されたまちを、復興工事によってもう一度壊されているような感覚 でした。

 

家やまちを失った私にとって、請戸小学校だけが、唯一震災前のまま残されたもの。小学校が壊されたら請戸から全てが無くなってしまう、私が 請戸に戻ってくる理由 がなくなるー。そう強く思っていたので、絶対に残って欲しかったです。

 

そんな思いを抱えている反面、請戸小学校の処遇は約7年間決まらず宙ぶらりんだったんです。いつ壊されてしまうのかと、ずっとひやひやしていました。(もし壊されてしまうとしたら、署名を集めてでも反対しようと思っていたのですが…。)

 

震災遺構として残ると知ったとき、嬉しい!というよりかはやっと決まったか!という気持ちでした(笑)

 

悲しい場所ではなく、懐かし思い出が溢れる場所

私にとって請戸地区は、 懐かしい思い出の詰まったとても大切な故郷 です。今は何もなくなってしまいましたが、家や建物が沢山あり住民の繋がりも強く、人々の営みが感じられる地域でした。

 

請戸小での思い出もたくさんあります。

 

印象に残っている思い出は、近くの浜辺で開催された「砂の芸術」という行事です。
縦割りの班に分かれ、事前に計画を立て、当日は砂浜で1つの大きな作品を完成させます。優秀賞やユニーク賞など、先生から賞状が貰えました。イルカやタコなど小学生のクオリティながらも、それぞれの個性がでる作品ばかりでした (笑)


日常では、 学年の垣根を超えた交流が多かった です。1学年1クラスと人数が少なく、隣の教室が別の学年の教室になっていたので、昼休みに1年生の教室に行って一緒に遊んだりも!

 

そんな思い出の詰まった場所でもありながら、震災遺構になった母校に思うこと。それは、震災の恐ろしさや避難する大切さを全国の人に感じ取ってもらえる存在になってほしいということです…というのが表向きの回答で、 「請戸の人が帰れる場所になる」 ということが一番の願いです。

 

請戸地区からお墓を移転させた方も多く、当時住んでた人は行く理由がなくなってしまうことがあります。
しかし、今こうして請戸小が一般公開されたことで、「久々に行ってみない?」と全国に散り散りになってしまった昔のクラスメイトを誘って集まったり、同窓会を開催したり、また請戸に戻る理由になれば嬉しいです。

 

私が働いている震災関連施設に1年前、たまたま同級生が来たことがあります。私が働いてることを知らずにきたのですが、偶の再開からいろいろ立ち話をしました。請戸小も、浪江町や請戸小に関わっていた人が 気軽に立ちよって思い出話ができる、そんな縁を繋ぎなおす場 になればいいなと思います。


請戸に訪れた皆様には、ここに沢山の人がいて、確かに生活が営まれていたことを知っていただければ嬉しいです!

津波の被害だけでなく、「請戸」というまちが確かにここにはあったこと、多くの人が暮らしていたことを知ってほしい。

 

プロフィール

高橋 奈緒さん(仮名)

震災当時、請戸小学校に通っていた。現在は震災の関連施設で働いている。