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災害時に命を救う鍵は、日常からの「共助」の力 -防災コミュニティデザイナー-

1995年1月17日早朝ーー。


明け方のまだ空が暗い時間帯に、突然起きた大きな揺れで目が覚めました。
当時小学2年生だった私は、母の声で訳もわからず布団の中に隠れました。揺れが収まった時、家の中はぐちゃぐちゃになっていて、散らばった家具や物で塞がっていた玄関へのドアを、なんとか母がこじ開けて脱出できました。


避難中、近所の人から声をかけられた時、ひどくホッとしたのを覚えています。

 

あと、同じマンションのお姉さんが三足の靴下を渡してくれて。
わたしたち家族は裸足で外に飛び出していたんです。そのお姉さんは何か役に立つかもという想いで靴下をかき集めていました。おかげ様で、大変な状況下でも身も心も温かくなりました。


当時は必死で避難をしていたので気がつきませんでしたが、このような出来事があったのは、普段からご近所さん同士で自然と助け合いができていたからだと思います。日頃から挨拶が行き交うようなマンションで、コミュニケーションを重ねていました。


そして、16年後に起こった東日本大震災。


私は東京のオフィスビルの31階にいました。そのとき、上司が部下をおいて一人で逃げていく光景を目の当たりにして、突如起こる災害は人々をパニックにさせ、責任感のある方さえも逃げてしまうという現実を見ました。


訓練や共通意識をもつことの大切さを実感し、日々の一つ一つの行動が咄嗟の判断に繋がると思いました。この2つの経験を通して、私は 「共助」という言葉を大切にしながら災害時に助け合えるまちづくり に携わる仕事をしています。

 

 

「奇跡」ではなく、共助の力で助かったストーリー

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請戸小学校での避難エピソードには「共助」の精神が顕著に現れていると思います。「全員無事避難できた」という背景には、普段からのコミュニケーションが生み出した結果ではないでしょうか。


一連の流れの中で、ある生徒が「こっちの道が近いよ!」と大平山を越える道を教えてくれました。先生が生徒の言葉を信じ進んだ結果、津波に飲まれず山を越えることができました。 命がけの避難中、先生のような上の立場の人が生徒の言葉に従うということ。 

 

それは、普段から生徒が自由に発言でき、自分の考え・知識を受け入れてもらえるような環境だったと思います。先生自身も普段から生徒をよく観察していたからこそ、信じることができたのかなって。


また峠を越える途中で、地域の方がトラックの荷台に生徒を乗せてくれたエピソードもありますね。声を掛けてくれたこと、助けてもらえたこと。困った時はお互い様で、普段から地域住民との関わりがあったからこそ、助け合いに繋がったのだと思います。


「全員が助かった」ということは、奇跡でも偶然でもなく、 必然の結果 だと思います。共助の下地となるコミュニケーションがあったからこそ、なし得たことですね。

 

 震災の跡が消えても、記憶を忘れないために。

2015年に一般社団法人まちづくりなみえの菅野孝明さんに東京で出会い、浪江町のことを知り、2021年に移住しました。


初めて浪江町を訪問したのは、避難解除した直後の2017年。
 建物は震災当時のまま残り、音・匂い・気配は全く感じられなくて。 

 

まちから人々の営みが消え、どこから人が戻ってくるのだろうと思いました。ここで生きていた人はどんな想いで故郷を去ったのだろう、バラバラになった住民は今はどのように生きているのだろう。被災地の現状を見つめたとき、色々な感情が湧いてきました。


しかし、浪江町はゼロからのスタートだからこそ、挑戦に前向きで新しい取り組みがたくさん行われています。
それを実感したエピソードは、まちづくりなみえ主催の”災害を考えるキャンプ”に参加したことです。

 

 

まちの人が集まり、前代未聞の災害を経験した浪江町だからこそ、災害対応をキャンプを通じて体験し、学んでいく企画でした。キャンプでは限られた食料で調理したり、テントをゼロから組み立てたり。浪江町の未来について話した時も、参加者は 復興を前向きに捉えていて、ポジティブなエネルギー が宿っていました。


そんな姿を見て、わたし自身も防災のお仕事に携わる身として、みんなのために何かしたい、共助のコミュニティを強めていきたいと思いました。


2021年に移住してからは、まちの人に聞き取り調査を続けています。帰還者、現在の居住地から浪江町に通っている人、避難先の町民など様々な方からお話を聞いています。町外からきた人間だからこそ、現地のことや住民の想いをもっと知りたいんです。


特に、元々浪江町に住んでいて今は避難先で生活をしている方のお話は印象的でした。放射能に対する差別感などで、浪江町の住民だということを隠したまま毎日の生活を送っている方でした。
記憶は形あるものや風景がなくなったから消えるわけではありませんし、心に残ります。

 

今でも浪江町での生活を思い出しながら、避難先で過ごされているそうです。しかし、大変だった記憶や辛い気持ちは心の奥底に仕舞い込み、自分はもう前に進んでいるように振る舞っていると仰っていました。

 

 

このように、言葉にならない思いを抱えながら、誰にも語れずに日々を過ごしてきた人は少なくないと思います。離れても地元に愛着を持っている方はいらっしゃいますし、いつか人々の想いや体験を共有できる場をつくりたいです。そんな空間があれば、対話する時間と震災に向き合う機会が生まれるのではないかと思います。


わたし自身も、住んでいる方が抱えているジレンマを感じることがあります。でも、正直に対話することはとても大切です。このまちが大好きだからこそ、「言っちゃいけないかな」と抱え込むのではなく、ちゃんと伝えることを心がけています。

 

『防災は日常のコミュニケーションから始まり「共助」の力で命を守る』

 

プロフィール

葛西優香さん

株式会社いのちとぶんか社 取締役、防災×まちづくりのコミュニティデザイナー。2011年3月11日「防災」を伝える職に就くために一念発起。防災FM局での放送業務を経て、自助・共助があるまちづくりに取り組む。現在は浪江町に住みながら、東日本大震災・原子力災害伝承館(福島県双葉郡双葉町)の常任研究員として活動中。