その日、私は5年生と一緒に体育館で卒業式の準備をしていました。
生徒を体育館の中央に集めて、作業内容を説明している時に揺れが来ました。真っ先に思い浮かんだのは、出口の確保。体育館が傾くことを恐れドアを開けましたが、 その姿勢のまま左右に1mぐらい振られました 。これまで経験した地震とは明らかに違う揺れです。
揺れが落ち着き、次の指示を出そうとした瞬間にも2度目の大きな揺れが来ました。揺れが完全に収まるまで、とても長く感じました。
体育館から職員室に戻ると、校長が校舎外へ避難指示を出していました。全学年を見届けたあと職員室に戻り、校舎内の最終点検を教頭と分担し、私は2階の各部屋に声をかけてまわりました。
その途中で、児童が駐車場から校舎外へ避難する姿が見え「ああ、校外へ避難するんだな。」と思いましたが、この時点で津波の被害を全く意識できる余裕はありませんでした。全員の避難完了を確認して職員室に戻り、私も児童を追って避難し始めました。
避難訓練は毎年行っていましたが、 実際は訓練とは異なる ところが多くありました。
本来は体育館倉庫前の校庭に避難する予定でしたが、校長は地割れを警戒して、アスファルト上に避難することになりました。
訓練も大切ですが、訓練通りやればいい訳ではないのです。大切なのは、 限られた時間・情報の中で、常に最善を選択していく こと。実際、請戸小も「偶然」が重なって助かったと思っています 。後10分でも避難が遅れていたら助からなかった と思います。
県道では車の往来が多く、児童が道路を渡れない状況だったので、私より先に避難していた児童たちにすぐに追いつきました。
児童を迎えに来た保護者もいましたが混乱を防ぐため引き渡しはせず、先生方と協力して道路を渡り、児童全員を連れて大平山へ向かいました。 その時もまさかあんなに大きな津波がくるなんて全く頭にありませんでした。
私は児童の最後尾についていました。(当時、列になっていました。) たまたま畦道だったのもラッキーでした。
もし大きな車が通れるような道だったら、保護者の車が押し寄せていたかもしれません。そこで児童の引き渡しをしていたら、間に合わずに 津波に飲み込まれていたかもしれない と思うとゾッとします。
先頭集団が大平山の入口とは違う所を曲がったのを確認しましたが、距離が離れていたためそのまま私も後に続きました。途中、一度山から様子を見に降りた時には、足下まで水(海水)が迫っているのを見て愕然としました。
その時、これはただ事ではないと初めて認識したんです。今まで歩いてきた道はもう戻れない。そう確信し、何とか全員を大平山の避難場所か町役場まで移動させなければいけないと。
その日は雪が降っていたんです。地震の恐怖だけではなく、寒さとも戦っていました。そんな中、通りがかった地域のトラックの運転手の方が、荷台にわたし達全員を乗せてくれたんです。こうして大平山から降りることができ、町役場まで全児童避難完了できました。
ただ、荷台に乗って避難している時は、津波が間近まで押し寄せている実感はありませんでした。 津波が間近まで押し寄せている実感はありませんでした。 もし津波がひどかったらトラックの荷台から見える川の流れに、瓦礫がもっと混じっているだろうと。
そうしたものを子供たちに見せないように「寒いから伏せておいて」と指示していたんです。ただ、予想よりひどい様子ではなかったので、被害はそれほど深刻ではないのかもと思っていました。
状況を知ったのは、浪江町の役場まで避難したあとです。
子供たちを引き渡している最中に、親御さんや他の学校の先生から「命からがら逃げてきた」「とんでもない様子だった」ときいて、初めて津波が甚大な被害をもたらしていると知りました。
思いこみで「大丈夫」と安易に思わず、普段からちょっとした「もしかしたら」という意識をして、最善を知る・考えておくための活動をすることが大切です。もしあの時、大平山に避難する選択ができなければ、全員が助かることは難しかったと思います。
歴史に「もし」はない んです。
わたしたちが全員避難でき助かった理由をあげるとすれば、 命を守る行動は普段の暮らしの中にある のだということ。もし、子供達が留守番中に地震が起きたらどうするか。いざという時、自分で逃げる方法を考えるためにも、普段から避難場所を確認しておくことを伝えています。
いつどこでも予告なく突発的に起こりうる自然災害。そして誰にでも起こり得るということを忘れず、まずは自然を『知ること』を大切にしてほしいのです。
最後に、教員からの目線として普段の様子を語りたいなと。地域住民との繋がりが強かったこと、学年を超えて仲が良かったこと。請戸小学校は、 日常から人と人の関係性が築かれていました。
女子児童が田植え踊りを継承したり、うどん作りの教室では地域の方々が講師をしてくださったり。地域と学校が繋がる機会がすごくたくさんあって、地域ぐるみで子供を育てていこうという風潮が魅力的です。
保護者には漁業関係の方が多く、ある意味勢いのある人が多かった。父親が漁にでていることも多く、母親がソフトボールや野球のノックをしているんです。母親が中心となり、スポーツの面倒をみていたのは、他の地域にはない光景だと思っています。
また、学校内での先生、生徒の繋がりも濃いです。
全学年の児童と教職員の全員が肩を並べてランチルームでお昼を食べますから、 毎日同じ空間で対話しながら過ごしていました。 学校全体が一つに繋がる大事な空間かつ時間です。
他にも、多目的広場で音読の発表会もありました。下級生と一緒に勉強し、上級生の姿を見せる。下級生もその背中を見て学んでいく。そんな学年を越えた繋がりは、請戸小学校の面白さだと思います。
だからこそ、 上級生の子が誰に指示される訳でもなく、自然と下級生の子を守って囲むように歩いていたの だと思います。
佐藤信一さん
浪江町出身の浪江町教員。震災当時に請戸小学校(以下、請戸小)に教務主任として勤務。震災後は福島市内の小学校に勤務していた。
2019年、震災遺構として残す提言にも当時の職員代表として参加。請戸地区を離れた人々が久しぶりに再会を果たせるような場所になってほしいとの願いもある。
現在は浪江町立なみえ創成小学校に勤務。長期休みは請戸小に足を運び、現場運営を手伝っている。