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請戸小を残す意味。防災意識向上と地域の拠り所としての遺構-浪江町職員-

「まるで映画でも見ているような、とても日本のこととは思えない光景でした。」

震災当時、福島大学に通いながら福島市で1人暮らしをしていた玉川宏美さん。そんな中、突然発生した大地震。故郷の浪江町にも海は突如として牙を剥き、津波が襲いかかりました。玉川さんの母親は、請戸小学校に勤めていました。

「発生直後テレビをつけたところ、『津波がくる』と報道されていました。1時間後には各地の津波被害の映像が流れ、信じられない光景を目にしました。ただ、報道されていたのは仙台空港やいわき市沿岸部でしたので、浪江の沿岸部地域がどうなっているのかは分かりませんでしたが、『おそらく同様の被害なのだろう、母は津波に飲み込まれたか…』と思ったのを覚えています。」

大切な人が命の危機に直面した経験をもつ玉川さんから、当時の状況から故郷浪江町に対する想いを伺いました。

3.11でみた母の姿

<震災後の請戸地区>

– 地震発生直後の状況について、玉川さんの心境も含めて聞かせてください。

地震発生後、テレビで状況を知りすぐに家族と連絡を取ろうとしましたが、通信がパンクしてなかなか繋がりませんでした。その日の夕方にようやく父や姉に連絡がとれましたが、ついに母とは連絡がとれませんでした。

– 当日中に連絡が取れないというのはかなり不安だったのではないかと思います。お母様と連絡が取れたのはいつでしたか。

震災から2-3日経ったあと、突然当時自分が住んでいたアパートに母が来訪してきました。しかし5-10分話した後、すぐ車で出発してしまいました。母は当時請戸小学校に勤務していたので、自分の学校関連のこともあったのだと思います。

その後、母と一緒に親戚のところへ避難しましたが、母が受け持っている1年生の安否確認をしきりにしていました。1年生に限らず、他学年や過去に受け持った別の学校の子供でも、近くの体育館にいるかもしれないと分かればすぐに顔を出して様子を見に行っていました。

– 震災という大きな出来事の中でも、周囲の方を気遣われる温かい心の持ち主の方だったのですね。震災当時、そのように児童の様子を心配するお母様の姿を見られて、どのような思いを抱かれましたか?

小学校の子供達を気にかける、教師としての母の一面を見て感動し、改めて尊敬しました。私自身は当時学生だったこともあり、自分のことしか考えられていない状況だったので、母を含めて働いている人達に尊敬の念を抱いたことを覚えています。

偶然の配属が震災に向き合うきっかけに

<震災遺構 請戸小学校の開館記念式典>

– 震災当時のお話、ありがとうございます次に、お母様がご勤務されていた請戸小学校を震災遺構として整備する事業に関わったきっかけについて伺わせてください。

きっかけは無情なことに、人事異動です(笑) たまたま郷土文化係というところに配属になり、請戸小学校の震災遺構としての整備に関わることになりました。そのため、私が自ら進んで『この業務に携わりたいです』と申し出たわけではなく、母が請戸小学校で教師をしていたことを知っている方も少なかったので、ある意味では運命的な人事異動だったと感じています。

ー偶然の配属だったんですね。関わっていく中で芽生えた思いはありますか。

それまで自分の担当した業務では、震災に色濃く関わる仕事はありませんでした。なので、この請戸小学校の事業が、自分にとっては初めて震災と強く向き合う場でした。この事業に関わるまで、正直、震災について考えたくない、できれば触れたくないと思っていました。しかし、向き合うことで気持ちの整理が少しついたように感じます。

そういう風に思えたのは、請戸小学校に通っていた児童や先生と話したことがきっかけでした。というのも、被災をした人の中には自分と同じく「震災についてあまり考えたくない」と思っている人が多くいらっしゃったんです。みなさんと話すことで、「こういう風に感じるのは自分だけではないんだな」と思えて、心が少し軽くなったように思いました。

そして「伝えること」「残すこと」の重要性を強く感じ、「母の勤めていた学校を残して、多くの人に見てもらおう」という決意ができました。この業務に携われたことは自分自身、いいきっかけだったと思っています。

– 請戸小学校の事業が、震災と向き合うきっかけになったのですね。では、請戸小学校を遺構として残す事業に関わる中で、大変だった出来事などはありましたか?

請戸小学校で働いてくださる人を探すのが一番大変でした。

ここは今も引き続き苦労している部分だと思います。請戸地区や浪江町の方をスタッフとして迎えて、見学者の方に自分の体験も織り交ぜながら話していく施設にしたいと思っていたのですが、中々難しかったですね。

しかし、初めは震災について様々な思いを抱えながら働くことに不安を抱いていた人が、働く中で「このタイミングで働けてよかったかもしれない」と言ってくださったこともあり、いい方向に進んでいるのではないかと感じます。

また、課題としては「ありのままを残す」というコンセプトの難しさもあると考えます。

請戸小学校は雨風に常に晒される建物なので、必然的に劣化していきます。そこを震災からの時の経過だと見せていくことが「ありのまま」ですが、見学者の方の安全を考慮すると維持や修繕が必要になってきます。しかし綺麗に直してしまうと全く違う建物になってしまうので、元々そこに生活があったことも見えるようにしながら、なるべくありのまま残していくという絶妙なラインを保つのが難しいと感じます。

– 確かに、ありのままを残すことと伝承するために手を加えるというバランスを保つのは、難しいことと感じます。反対に、事業に携わる中で感慨深かったこと、印象に残ったことがあれば教えていただきたいです。

この事業に関わる前は、請戸小学校に入ったことがありませんでした。初めて請戸小学校に入った時、2階の音楽室の教室に母の名前のプレートがかけてあったのを見つけて、「母はここで本当に働いてたんだな」と思ったときが感慨深かったポイントですね。

また、元児童から請戸小学校はお昼を全員でランチルームで食べていたという話を聞き、仲の良い学校で羨ましいな、いい学校だなと感じました。

「信頼」が生んだ奇跡の避難

<現在の請戸小学校外観>

請戸小学校の事業を担当することになり、普段の生活の話や震災当時のお話について、元児童や元教員の方からはお話を伺ってきたかと思います。「全員が大平山に逃げて助かった」というエピソードや避難について、震災後にお母様から伺ったことはありましたか。

母はいつも避難のことについて話してくれていました。中でも、体育会系の若い先生方について特に強く語っていました。

震災直後、その体育会系の先生方が、校長先生の判断を仰ぎながらも、先陣を切って決断して避難する集団を大平山まで引っ張ってくださったそうです。こうした先生方が避難の判断を担ってくださったからこそ、母のような女性の教員が避難の道中で泣いてしまう児童に寄り添えたと聞きました。

なので、母は「体育会系の先生方の行動力と判断力に非常に助けられた」とよく言っていました。

ー子供たちもいる中で、一部の先生の判断を信じてついていくということは、なかなか難しいことではないのかと感じます普段から判断を委ねられる信頼のようなものはあったのかについてお母様から伺ったことはありますか?

母は、請戸小学校は先生同士がすごく仲良しということをよく話していました。また、「〇〇さんこれやってください」と上から指示されずとも、自然と先生方がそれぞれの役割に立つようになっていたとも聞きました。チームワークがとてもよかったんだろうなと思いますし、当時の子供たちも先生への信頼を確固として持っていたんだと思います。そういう信頼が、迅速な避難につながり、全員が助かる奇跡につながったのではないかと思います。

これまでも、これからも、地域に愛される学校

<震災前の請戸小学校での農家見学の様子>

– ここからは、請戸小学校について、玉川さんの考えを中心に伺っていきたいと思いますまずはじめに、請戸小学校を一言で表すとどのような学校だと思いますか。

「地域に愛された、仲良し学校」だと思います。私は請戸地区の人間でもなければ請戸小学校出身でもないので、この業務に携わるまで、請戸小学校は「母の最終勤務地」というイメージしかありませんでした。さらに言うと、震災前は校舎自体も見たことがありませんでした。

ですが、業務に携わる中で当時の児童から、学年問わず仲良しだったと聞き、素敵だなと感じました。また、地域の人が請戸小学校に来て児童と一緒に田植えや稲刈り、漁港に行くなどの地域と密着した授業をやっていたことも伺い、児童同士の絆だけではなく地域と請戸小の絆も感じる学校だなと思いました。

ー「地域の人に愛された」という言葉選び、とても素敵です。では今後、請戸小学校にどんな存在になっていって欲しいですか。

震災前までは地域に愛された学び舎としてその役割を果たしてきた請戸小学校ですが、震災後、学び舎としての再開は果たせなかったものの、「震災遺構」という新たな学びの場として残ることができました。

自然災害がいつ・どこで起こるかは誰にも分かりません。そういった中で、請戸小学校を訪れたことで少しでも防災意識の向上に資することができればと思います。またそれだけではなく、地域の方々にとってはまた集まれる場所のひとつとなってくれればと思います。

実際、請戸小学校がオープンしたあとに、管理棟に展示されている請戸地区の昔の写真を見て「これ〇〇さんじゃない?」と談笑されている方がいたり、過去の請戸の映像を見て懐かしんでいる地域の方もいらっしゃいました。

防災に対して考えるだけではなく、請戸地区の昔の姿を残す場所として、地域の人がまた集まって語り合える場所であればいいと思います。

変わらず故郷の町、浪江

請戸小学校についての思いを伺うことができ、心温まりました。震災前の浪江町と現在の浪江町を比較してどう感じますか。

震災から11年が経過した今、やはり元の町並みや生活の様子ではないことに寂しく感じるとともに、やりきれない気持ちになります。

例えば、家屋解体による景観の変化や未だ町内で生活している方が少ないことなど…。しかし、新しくできあがっていく現在の浪江町も未だ発展途上ではありますが、今までと違う魅力も出てきたのかな、というように感じます。

どのような点が新しい浪江町の魅力になっていくと感じますか?

家屋や施設の解体によって景色は変わってしまっているので、当時の浪江町を取り戻すのは難しいのかなと感じています。しかし、そのような中でも徐々に新しい浪江町になろうとしているタイミングなのかなと思います。

例えば駅前の再開発という話や、イオンや道の駅、ふれあいセンターなどの新しい施設が少しずつ出来上がってきています。これからある意味無限の可能性があるし、どんな風にでもなれる町だと思います。

新しい施設ができつつも、山の風景や海の様子は昔と変わらない様子だと思うので、こうした原風景は変わらずに、少しずつ新しい浪江町になっていくのが新しい魅力だと思います。

– 無限の可能性がある町、とてもワクワクします玉川さんとしては、将来的に浪江町にどのような姿になっていてほしいと感じますか?

町並みが変わっても住民が安心して暮らせる町であってほしいですし、自然など変わらない風景も大事にしながら、みんなに愛される町であってほしいです。

– 自然を残しつつ、新たな側面が見える町になれば素敵ですね。玉川さんには震災以降、浪江町には住むという意味では戻っていないとのことですが、戻ってまた住みたいと思いますか。

私は浪江町自体が好きなので、タイミングさえあれば戻りたいと思っています。震災後に福島市に移った父も、浪江町の実家を解体した後に福島市に家を建てましたが、浪江町の実家の跡地にログハウスみたいなのを建てたいなと最近言い始めました。ログハウスが建ったら入り浸りたいなと思っています(笑)

– 浪江町自体が好きと仰られていますが、具体的に浪江町のどんなところが好きですか。

少し言葉にするのが難しいのですが、「程よい田舎感」なのかなと思います。自分自身、都会はそこまで得意ではなくて…。浪江町に住んでいると、程よい田舎感を味わえると思います。自然だけではなく遊び場やゲームセンターなどがあって、住みやすい町でした。

あとは、子供の頃から浪江町が好きで、ここで就職して住むんだという思いがずっとありました。どこが好きというよりは、生まれも育ちも浪江町はずっと変わらず「故郷」であり続けるのかなと思います。

– 素敵なお話、ありがとうございます。そんな「故郷」浪江町での楽しかった思い出などあれば教えていただきたいです

浪江町には十日市というお祭りがあり、そのお祭りに色々な友達と行くのが楽しかったのを覚えています。私は浪江小学校に通っていたのですが、浪江小学校は十日市のタイミングで学校自体がいろんなものを展示する場になっていました。

十日市の時期になると授業が午前だけになり、午後は帰宅してもいいと言われるんです。実はそれは浪江小学校だけの特権だったのもいい思い出です(笑)

あとは、マリンパークなみえという施設に「おもしろ自転車」というのがあって、足を開いたり閉じたりして乗る自転車とか、少し変わった自転車がおいてあったんです(笑)そこで小さい頃よく遊んでいました!

そのマリンパークなみえのコテージで、成人式のタイミングで同級生たちと集まって、BBQをした思い出もあります。子供の頃からたびたび訪れていたので、マリンパークなみえは思い出深い場所でした。

– 思い出溢れる、楽しい場所だったことがひしひしと伝わってきます!それでは最後に、請戸小学校や浪江町を訪れる人にメッセージをお願いします。

浪江町は、海も山もある自然豊かな町です。

東日本大震災及び原発事故により甚大な被害を受けましたが、復興・再生へ向けて日々進化しています。そうした中で、震災を忘れない・防災意識をもつことを目的として、請戸小学校は整備・保存され、一般公開されています。

震災を経験していない方でも、被災した建物を見ることでわかることがあると思います。例えば、請戸小学校は1階と2階で全然教室の雰囲気が違います。2階部分は比較的そのまま残っていますが、1階部分は津波を受け、教室があったのかもよくわからなくなっています。そのような差を見るだけでも、被害の状況はわかると思います。

実際に学校を訪れていただき、展示されている震災前の人々の暮らしや震災の記憶から、いま自分たちが暮らしている地域ではどういった災害が起こりうるのか、また災害発生時にはどんな行動をするべきかなど、考えるきっかけとなれればと思います。

災害はいつも同じではありません。

思ってもみないことが起きたときにどうすることができるのか、日頃から少し意識しているだけでも選択肢は変わってきますし、より多く考えることができるようになります。請戸小学校を訪れることで、東日本大震災について知ることはもちろん、実際に自分のこととしても考えてみて、広く防災について考えていただければ幸いです。

「わたしにとっての“命を守る行動”ってなんだろう?」 
実際に請戸小学校を訪れて、見つめてみませんか?

プロフィール

玉川宏美さん

浪江町出身。請戸小学校の震災遺構としての整備工事や開館・運営業務に携わる。震災後は浪江町の役場職員として働き始め、現在は浪江町職員であるものの、福島県庁に派遣となり、県庁の総務部で働いている。