自然災害は必ず起こる。
「避難方法を常に考えておくことが大切だと思います。『こうすれば絶対安全』というものはなく、普段から最善を知る・考えておくための活動をするべきです。」
そう語る佐藤信一さんの瞳には、浪江町を思うが故の強い意志が感じられました。「全員が助かった」という奇跡のストーリーをもつ請戸小。大震災を経験した佐藤さんの目に、当時の行動はどう映っているのでしょうか。
「もし大平山に避難する選択ができなければ、全員が助かることは難しかったと思います。より助かる可能性を高めるために、情報を集め選択肢を知る必要があります。もし、子供達が留守番中に地震が起きたらどうするか。いざという時、自分で逃げる方法を考えるためにも、普段から避難場所を確認しておくことを伝えています。自然災害は必ず起きるので、『知ること』を大切にしてほしい。」
長期休みは請戸小に足を運び、現場を手伝う佐藤さん。スタッフの中には、佐藤さんの震災体験のお話を聞けないか尋ねる熱心な方も多いのだとか。しかし、請戸小には語り部のような存在がいないため、今後はもっとそのような場を作っていきたいのだといいます。
「請戸小のストーリーだけでなく、他の地区の避難経験を聞くことができれば『震災の危険性を広く伝える施設』としての役割が高まると思います。管理棟はあるのですが、ゆっくり話せる広いスペースがないので、談話スペースのようなものが設置できればいいですね。」
災害は忘れた頃にやってくる。未来への想いを共有してくださった佐藤さんは、当時どんな経験をし、そして今何をすべきだと考えているのか、お話を伺いました。
あの日も日常だった。
-あの日は、普段と変わらず過ごしていたのでしょうか。
朝食をとりながらコーヒーを飲み、新聞を読んで出勤しました。3月は次年度の教育計画作成追い込みの時期で、午前中に進める作業を考えながら出勤しました。
– 突然起きた中、地震発生から避難完了まではどんな様子だったのでしょうか。
地震発生直前は、5年生と一緒に体育館で修・卒業式の準備をしていました。生徒を体育館の中央に集めて、作業内容を説明している時に揺れが来ました。揺れはじめから大きな揺れになるまで、あまり間隔がなかったように思います。
真っ先に思い浮かんだのは、出口の確保です。これまで経験した地震とは明らかに違う揺れでした。体育館が傾くことを恐れドアを開けましたが、その姿勢のまま左右に1mぐらい振られました。
そして揺れが落ち着き、次の指示を出そうとした瞬間に2度目の大きな揺れが来ました。揺れが完全に収まるまでは、とても長く感じました。
私自身中学1年生の時に前回の宮城県沖地震(1978年当時の規準で震度5)を震源地に近い福島県相馬市で体感していましたが、今回はそれ以上の揺れだと確信しました。
– 体が振られるほど…。日頃から避難訓練をされていたと思うのですが、訓練の時と比べて生徒や教員の様子はどうだったでしょうか。
津波避難計画は作成されており、教育計画にも入っていましたが、実際に避難する訓練は最近は実施されていませんでした。以前は実施していたようですが、不審者の多発から防犯の訓練が優先されていました。
実際、避難訓練と違うところがいくつもありました。本来は体育倉庫前の校庭に避難することになっていましたが、校長先生が地割れを警戒して、アスファルト上に避難することになりました。
訓練も大切ですが、訓練通りやればいい訳ではありません。大切なのは、常に最善を選択していくこと。実際、請戸小も「偶然」が重なって助かったと思っているので…。後10分でも遅れていたら助からなかったと思います。
– 机上の空論ではなく、自分自身で考えることが大切なのですね。校長先生から校舎外避難の指示が出されたとき、佐藤さんはどのような行動をとっていたのでしょうか。
体育館から職員室に戻ると、校長が校舎外避難の指示を出したと教頭から聞きました。1階の各教室はすでに出たあとでした。プールの水が揺られて、1階多目的ホールから通路まであふれているのを視認し、4~6年生には保健室を通って校庭に出るように声をかけました。
全学年を見届けたあと職員室に戻り、校舎内の最終点検を教頭と分担し、私は2階の各部屋に声をかけてまわりました。その途中で、児童が駐車場から校舎外へ避難する姿が見えました。その時「ああ、校外へ避難するんだな。」と思いましたが、津波の被害は全く意識していませんでした。全員の避難完了を確認して職員室に戻り、私も児童を追って避難し始めました。
– ここまではスムーズに避難できているように思いますが、実際はどうだったのでしょうか。
県道では車の往来が多く、児童が道路を渡れない状況だったので、先に避難している児童たちにすぐに追いつきました。児童を迎えに来た保護者もいましたが、引き渡しはせず、先生方と協力して道路を渡り、大平山へ向かいました。その時も津波のことは全く頭にありませんでした。
私は児童の最後尾についていました。(当時、列になって向かっていました。) たまたま畦道だったのもラッキーでした。もし大きな車が通れるような道だったら、保護者の車が押し寄せていたかもしれません。そこで児童の引き渡しをしていたら、間に合わずに津波に飲み込まれていたかもしれないと思います。
先頭が大平山の入口とは違う所を曲がったのを確認しましたが、距離が離れていたのでそのまま私も後に続きました。途中、一度山から様子を見に降りた時には、足下まで水(海水)が迫っているのを見て愕然としました。
その時、これはただ事ではないと初めて認識したんです。今まで歩いてきた道はもう戻れない。そう確信し、何とか全員を大平山の避難場所か町役場まで移動させなければいけないと。
教職員の他、サポートに来てくれた保護者の協力のおかげで大平山から降りることができ、更には通りがかったいわき市のトラックのおかげで町役場まで全児童避難完了できました。役場に着き子どもたちを庁舎内にいれた時には、本当にほっとしました。
– 1つ1つの判断が繋がっていたのですね。下級生もいた中スムーズに避難ができたのは、どのような背景があるのでしょうか。
普段から養われているチームワークだと思います。一緒に給食を食べるなど、普段から交流が盛んで仲良しでした。だからこそ、上級生の子が誰に指示される訳でもなく、自然と下級生の子を守って囲むように歩いていたのだと思います。
-児童たちの普段の様子、目に浮かびます。当時、津波が引けば帰宅できると考えていたのでしょうか。
大平山からトラックの荷台に乗って避難している時も、津波が間近まで押し寄せている実感はありませんでした。もし津波がひどかったら、トラックの荷台から見える川の流れに瓦礫がもっと混じっているだろうと。橋の上を渡っているとき、そう感じました。そうしたものを子供たちに見せないように「寒いから伏せておいて」と指示していたんです。ただ、予想よりひどい様子ではなかったので、被害はそこまでなのかなと思っていました。
– 多くの児童を引き連れる中、そういった考慮をできるのはさすがです。実際に津波の被害が甚大だと知ったのはいつですか?
-浪江町の役場まで避難したあとです。子供たちを引き渡している最中に、親御さんや他の学校の先生から「命からがら逃げてきた」「とんでもない様子だった」ときいて、初めて津波が甚大な被害をもたらしていると知りました。
震災後は原発の件もあり、なかなか請戸小に戻れませんでした。外からの話から、町中大変な様子になっているだろうと思っていましたが、実際に自分の目で見たのは2011年の6月でした。
学校の様子を見て、あと一歩遅かったらどうなっていたかと…。よく助かったなと思いました。当時は必死で避難していたのであまり感じなかったのですが、実際に大平山まで歩いてみると思ったより距離が長くて、かなり時間がかかるなと思いました。
地域と人の繋がりを
大切にする
– 教務主任として、児童とはどのような関わり方をされていましたか。
3-6年生の理科の授業を受け持ち、担任の出張時には他の授業もサポートしていました。給食は生徒全員で食べていたので、全校生徒の苗字、さらには兄弟関係まで覚えていました。
– 請戸小学校を一言で表すと、どのような学校だったのでしょうか。
とにかく楽しい学校です。美しい海の側で、元気な子どもたち、協力的な保護者、そして何より心が通じ合う同僚の先生方に囲まれて。外観で言えば、船や漁に関わるモチーフや昇降口の上に北斗七星の形にダウンライトがあり、遊び心あふれる学校かなと。
地域住民との繋がりも強かったです。田植え踊りは女子児童が継承していったり、うどん作りの教室をしたいと思ったら、地域の方々が講師としてきてくださったり。
そういった地域と学校が繋がる機会がたくさんあって、地域ぐるみで子供を育てていこうという風潮は魅力的ですよね。
– ここは他の地域とは違う!と思ったエピソードはありますか?
保護者には漁業関係の方が多く、ある意味勢いのある人ばかりで楽しかったです(笑) 父親が漁にでていることも多く、母親がソフトボールや野球のノックしているんです。母親が中心となり、スポーツの面倒をみていたのは、他の地域にはない光景かなと。
-ここまで聞くと、垣根を越えた繋がりを大切にしているように思います。また、請戸小学校は、全学年児童と教職員全員がランチルームで給食をとると仰っていましたね。
はい、学校全体が繋がる大事な時間です。また、請戸小学校は調理場が併設されているので、毎日出来たての給食を食べられるのが何よりも楽しみでした。
給食の他にも、多目的広場で音読の発表会をしたり。自分達だけの学習をするのではなく、下級生と一緒に勉強し、その姿を見せる。下級生もその背中を見て学んでいく。そんな学年を越えた繋がりは、請戸小学校の面白さだと思います。
震災で失われた
浪江の歴史を残して
– 2019年、請戸小学校を震災遺構として残す提言に参加されていましたよね。震災前、請戸小に勤務していた職員の代表として選出されたと聞きました。どのような想いをもち、提言をしたのでしょうか。
実は知らせを聞く前は、津波が直撃しているので建物が倒壊する危険もあり、請戸小がなくなってしまうかもしれないとは思っていたんです。しかし、創成小から見える請戸小は、特段傷んでるように見えなかったので残ってほしい気持ちが強かったです。
そんな時に連絡がきて、ぜひ残れば嬉しいと思い、参加することにしました。
– 提言時、どのような雰囲気だったのでしょうか。
委員会には専門家もいますが、請戸小や浪江町に関わる人の意見をしっかり聞いてくださりました。当時の職員にも意見を聞き、全員あの震災の被害を後世に伝える意味からも残して欲しいという想いでした。
私自身、震災前の請戸地区を思い出すための役割を担える請戸小の校舎は、ぜひ残して欲しいと思いました。この考えに至った重要な要素は、請戸小学校で一人も死者がいなかったことがあげられます。
-実際、請戸小が遺構として残ると聞いた時どんなことを感じましたか。
長く施設を維持していくためには、多額に維持費がかかると思いました。維持のための財源をどう確保するかで、保存の規模が決まるだろうなと。
当時の浪江町の状況(町への帰還者が約千名)からすると、校舎の一部保存でも仕方がないと考えていたので、町が校舎の規模(校舎・体育館)を残すと聞いた時は、大変うれしかったです。
– 今後、請戸小学校にどんな存在になっていって欲しいですか。
津波の被害の大きさを知ってもらうだけではなく、震災で失われた浪江の歴史(展示物を通して)も知ってもらえるような施設になればいいなと思います。また、請戸地区を離れた人々が久しぶりに再会を果たせるような場所になって欲しいです。
周辺地域と共に歩む
– 震災前と現在の浪江町を比べてどう感じますか。
震災前には、人口1万人以上のとても活気ある町で、地元の祭りで賑わっていました。町内を見渡せば、幼稚園生から高校生まで毎日見かけていました。現在の浪江町ではこども園・なみえ創成小中学校以外の子供達を見かけることがほとんどなく、とても寂しいですね。
学校を維持していくためには、多くの子どもたちがいないといけないんです。家族ぐるみで定住される人がまだまだ少ないので、今後増えてくれることを願っています。
– 当時のような活気が、町に溢れることを願います。
そうですね。後は医療関係が整ってほしいです。今は診療所しかなく、検査などは遠くの病院に行かないといけなくて。私自身も、かかりつけ医は福島市のほうにあります。子供たちだけでなく、高齢の人はもっと大変ですから。
また、浪江町は原発関係の往来は多い一方で、南相馬などと比べると立ち寄る人が少ないんです。近くの町・地域と連携しながら、全体で盛り上がっていければいいと思います。
– 地域で盛り上がれば、今以上にできることが増えそうですね。最後に、請戸小学校や浪江町を訪れる人にメッセージをお願いします。
震災から11年が過ぎましたが、浪江町はまだまだ復興途中です。一方で、この11年の間に着実に新しい浪江町が作られています。大震災の被害と共に発展途上の浪江町にも目を向けていただければ幸いです。
当時の被害や恐ろしさが10年経って薄れつつあります。今後、津波や地震に限らず、他の自然災害についても考えたり、災害についての見方を養う場としても広まってほしいです。
佐藤信一さん
現在、浪江町立なみえ創成小学校に勤務。震災後は、福島市内の小学校で働いたが、なみえ創成小学校の新設をきっかけに5年前に浪江町に戻る。