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3.11のリアルとこれからの請戸地区、浪江町への思い-請戸小元生徒-

3.11、請戸小では。

「唯一覚えているのは、おびえて震えてしまっている下級生の子に『寒くて(怖くて)震えているんじゃなくて、余震で揺れているだけだと思おう』と謎の励ましをしたことです。」

当時小学生ながら、避難中には下級生児童の手を握り、大平山を登って行ったという高橋奈緒さん(仮名)。

「実際、田んぼの水が揺れているのを見て、自分の震えが寒さと恐怖のためなのか余震のせいなのかわからなくなっていました。」

自分自身も恐怖でいっぱいだったにも関わらず、高橋さんを含む請戸小の児童たちは自主的に下級生の手を引いて、励ましの言葉をかけていたそうです。

全員が助かったというエピソードの裏には、どのような避難があったのか。

実際に体験した小学生目線での3月11日、そして母校・請戸小のお話や故郷である浪江町への想いについて、高橋さんに伺いました。

自然と励ましたり、手を握っていた

ーまず、震災当時のことについて質問させてください。あの頃の高橋さんは、どのような子供でしたか?

委員会の委員長や代表の挨拶に選ばれるような子どもでした。スポーツ少年団などには入っておらず、どちらかといえばインドア派だったかもしれません。

ー3月11日、地震発生から避難場所である大平山に登るまでの流れについて、高橋さんの感情を軸に教えていただけますか?

地震が発生したときは、揺れが大きくなる中、パニックになってはいけないと思い、頑張って深呼吸していました。周囲からは、今までに聞いたことのないガシャンガシャンという音がしていました。その後、教室から校庭に避難したのですが、歩いている途中に校舎内の棚が倒れているのを見て驚きました。

校庭から避難場所である大平山に避難した時のことは…ほとんど記憶がありません。唯一覚えているのは、おびえて震えてしまっている下級生の子に「寒くて(怖くて)震えているんじゃなくて、余震で揺れているだけだと思おう」と謎の励ましをしたことです。

< 倒れた構内設備>

ー下級生の子に声をかけてあげていたということで、大変な中でも周囲のことをよく気遣われいたのですね。

実は、大平山への避難中、私たち上級生は先生に何か言われるでもなく自発的に下級生の手を引いて励ましてあげていたそうなんです。震災後に当時の担任の先生からそういう風に聞きました。

下級生の子に対して、特に意識をして声をかけたという訳ではありませんでした。自分自身の記憶でも、下級生の子を励ましてあげよう!と強く意識した訳ではなく、自然と励ましたり、手を握っていた気がします。

ー意識せずとも助け合うという、素晴らしい精神が養われていたのですね。そうした学年の垣根を超えて助け合えたのはなぜなのでしょうか?

日頃から学年関係なく交流があったからだと思います。請戸小学校は1学年1クラスと児童数が少なく、隣の教室が別の学年の教室になっているので、違う学年の児童とも話していました。

例えば上級生の頃、昼休みに1年生の教室に行って遊んだりもしていましたね。

ーなるほど。では、震災当日の話に戻ってしまいますが、避難場所である大平山に辿り着いて以降のお話も伺えますか?

あの日、避難して大平山に登ってから、津波が来ていることにはまったく気が付きませんでした。津波の音らしきものを聞いたという人もいますが、私の耳に残っているのはザァアアという風に吹かれて木々が擦れる音だけです。

山の中で、「阪神淡路大震災ってこれよりもっと大きかったんだろうね」なんてのんきな発言をしていました。まさか自分が大災害に遭遇しているとは全く考えていませんでした。

ー津波自体を理解しておらず、ただ何かから逃げているという意識だったのでしょうか。

津波が何かというのはわかっていて、津波から逃げていることもわかっていました。ただ、リアルな津波はどのようなものかっていうのは想像がつかなくて。

『崖の上のポニョ』の水没シーンみたいなものだと思っていたんです。街に水が来てそのままスーッと引いていくイメージです。家や車が流されるとは思っていなかったので、水が引いたら戻れると思っていました。

ー実家がある請戸地区に戻れないとわかったのはいつ頃ですか。知ったときははどのような気持ちでしたか。

知ったときは、3月12日に原発の影響で当時避難していた浪江町の役場からさらに遠くへ避難するよう指示された際だったんですが、その時は長期的に戻れないとは思っていませんでした。

長い間戻れないとわかった時には、とにかく請戸に早く入りたいと思いました。2011年の6月、一時帰宅が認められた時も15歳未満は入れなかったので、親だけが自宅に戻っていました。その姿を見て、自分も早く請戸に、自宅に戻りたいと思っていました。

請戸地区への思いが強かったので、当時まだ街に立ち入りの規制がかかる前に、町に入って町の様子をYoutubeにアップしていた人の動画をよく見ていました。

戻りたいという意識はかなり強かったと思います。

請戸小ならでは、の思い出

ー震災当時のことについてのお話、ありがとうございました。次に、請戸小学校について聞いていきたいと思います。請戸小学校を一言で表すとどのような学校でしたか。

建物は、おしゃれでカラフル!学校生活については、学年問わず仲良し!という感じです(笑)

< 震災前の請戸小学校-カラフルな外壁 >

ーたしかに外観がカラフルでモダンな雰囲気でしたよね。高橋さんにとって請戸小学校はおしゃれで自慢の学校でしたか?

通っていた時は当たり前だったので「すごく自慢だ!」ということはなかったです。けれど一度離れてからまた小学校を訪れた時に、学校の壁や床に太陽とか魚のモチーフが描かれていたなと思いだして、そういうところは自慢だったのかなと思います!

ーまた、学年の垣根を越えた仲の良さは先程の震災当時の話にも表れていましたよね。ぜひそんな仲の良さを象徴する小学校での印象深いエピソードがあれば伺いたいです。

「砂の芸術」という行事が印象に残っています。学校近くの浜辺に行って、縦割りの班に分かれて砂で作品を作る行事です。

事前授業で作品の計画を立てて、当日は道具を持ち寄って砂浜で一つの大きな作品を完成させるんです。優秀賞とかユニーク賞とか、先生から賞状が貰えました。イルカとかタコとか、小学生のクオリティながらも班の個性がでる作品ができていたように感じます(笑)

当時は特に何も感じていませんでしたが、今思えば海が近い請戸小学校だからこそできた行事だなと思いました。

縁を結び直す場になってほしい

ー「砂の芸術」楽しそうですね!そんな思い出の詰まった請戸小が、震災後に震災遺構として残ると聞いた時どんなことを感じたのかぜひ聞かせてください。

やっと決まったか!と思ったのが正直な感想です。

私は震災後請戸に何度か訪れていて、そのたびに景色が変わっていくのを見ていました。建物が解体されていくのは復興が進んでいる証拠ですが、一度津波で壊された町を、復興工事でもう一度壊されているような、そんな感覚がありました。

こうして家や町を失った私にとっては、請戸小学校だけが唯一震災前のまま残されたものでした。この学校が壊されたら請戸から全てが無くなってしまう、私が請戸に戻ってくる理由がなくなる、と強く思っていたので、請戸小学校は絶対に残って欲しいと感じていました。

そんな思いを抱えている反面、請戸小学校の処遇は約7年間決まらず宙ぶらりんだったんです。ずっと、いつ壊されてしまうのかととてもひやひやしていました。もし壊されてしまうとしたら、署名を集めてでも反対しようとは思っていたのですが…。

そのため、震災遺構として残ると知ったときは、嬉しい!というよりかはやっと決まったか!!という気持ちでした(笑)

< 震災前の請戸地区-写真奥には住宅街が広がる >

ー請戸小学校にはやはり特別な思いがあるのですね。今後、請戸小学校にどんな存在になっていって欲しいですか。

震災の恐ろしさ、避難する大切さを全国の人に感じ取ってもらえる存在になってほしいです。…というのは表向きの回答で、一番は「請戸の人が帰ってこられる場所になってほしい」です。

請戸小学校が残ったなら、久しぶりに請戸に帰ってみようかな。とか、この機会に請戸の時の友達に声をかけて一緒に行ってみようかな、とか。

請戸小学校が残ったことで、請戸の人達の縁をもう一度繋ぎなおすきっかけになれたらいいな…なんて思っています。

ー「縁をもう一度繋ぎ直すきっかけになる場」ということで、やはり請戸小には、小学校や浪江町に関わった方達がもう一度集まれるような場になって欲しいということですか?

そうですね。請戸地区からお墓を移転させた方も多く、当時住んでた人は行く理由がないなとなることが多いと思うんです。

けど、今こうして請戸小が公開されたことで、同級会したりとか、「久々に行ってみない?」って全国に散り散りになってしまった昔のクラスメイトを誘って集まれるような、そういう、請戸地区に戻る理由になってくれれば嬉しいなと思います。

ー中でイベントごとをやって集まれる空間のようなイメージですか?

イベントごとがあるから集まるとかではなくても、気軽に立ち寄って、「久しぶりじゃん」みたいに話せる場だといいと思います。

私が働いている震災関連施設に1年前、たまたま当時の請戸小の同級生が来たんです。私が働いてると知らなかった子なんですけど、そこで偶然会って、いろいろ立ち話とかできたので、請戸小もそういう場になって欲しいと思います。

浪江町や請戸小に関わっていた人が気軽に立ちよって思い出話ができる、そんな場になればいいなと思います!

「請戸」というまちが、確かにここにはあった。

ーとても素敵な考えだと思いました。次に、浪江町全体について質問させて下さい。震災前の浪江町と現在の浪江町を比べてどう感じますか。

廃れたと感じます。最近ようやく六号線沿い(役場近く)は賑やかになりましたが、一本内側の道路に入れば更地が目立ちます。私の知っていた建物はほとんど壊され、夜は真っ暗。震災関連施設への就職を機に、アパート探しをしたとき、ここはあまり住みたくないなぁ…と思ってしまいました。

ー逆にどんな場所になれば住みたいと感じますか?

生活インフラとして病院が欲しいです!今浪江町には診療所しかないので。

あとは浪江も再開発を頑張っているから、それがきっかけで人が戻ってくればいいのかなと感じています。自分としては、津波や地震で破壊された町の中で残っている数少ない昔の面影や景観を、再開発で壊されるのは少し嫌だなとも感じています。

ー高橋さんと同じく、浪江町に戻りたくてもなかなか難しいという方が多いんでしょうか。

今請戸地区などは津波の影響で居住禁止になっているので、元々住んでいた人が戻ってくるのはなかなか想像がつかないですね。

私個人としては、請戸LOVE!みたいな人なので、浪江に帰りたい住みたいというよりは、請戸地区への思いの方が強いです。

だから浪江町がこうなったら住みやすいとかはないんですけど、最近は道の駅とかに人がきてる!とは思いました。だんだん人が増えていっているから、この調子でもっと来てくれればいいなと思っています。でも日常生活を考えると、お店もあまりないし今はまだやっぱり不便ですよね。

< 震災後に建設された道の駅なみえ >

ーなるほど。浪江町が、将来的にこんな姿になっていてほしい!という展望はありますか?

震災前のような、当たり前に人が住んでいて、普通の生活が感じられる、そんな場所になってほしいです。

理想は前に住んでいた人が戻ってくれて、コミュニティが作られることです。でも、正直戻ってこようっていう人は少ないと思います。駅前再開発なども私は抵抗がある感じなんですけど、それで人が来てくれればいいのかなと思います。

ー最後に、請戸小学校や浪江町を訪れる人にメッセージをお願いします。

今は何もない請戸地区ですが、元々は家がたくさんあって、住民のつながりがとても強い地域でした。私にとって請戸地区は悲しい場所ではなく、懐かしい思い出の詰まったとても大切な場所です。

請戸地区を訪れた皆様には、ここにはたくさんの人がいて、確かに生活が営まれていたことを知って帰っていただきたいなと思います。

そしてぜひ、帰りには請戸のお魚を食べていってください。とてもおいしいですよ!おすすめは、しらす丼とコウナゴです!

津波の恐ろしさと同時に、
「請戸」というまちが確かにここにはあったこと、
多くの人が暮らしていたことを知ってほしい。

プロフィール

震災当時、請戸小学校に通っていた。

現在は震災の関連施設で働いている。